では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。 それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。 だから、彼は義と認められたのである。 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。 そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、
罪を主に認められない人は、さいわいである」。
いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 ローマ人への手紙5章1~11節 「神との平和」 投稿日: 2014/01/25 投稿者: Tomio Ohashi きょうは「神との平和」というタイトルでお話したいと思います。 このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。 ダビデもまた言っている、「彼らの食卓は、彼らのわなとなれ、網となれ、つまずきとなれ、報復となれ。
しかし、わたしはあなたがたの記憶を新たにするために、ところどころ、かなり思いきって書いた。それは、神からわたしに賜わった恵みによって、書いたのである。
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。 彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。
それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 キリストにあるわたしたちの同労者ウルバノと、愛するスタキスとに、よろしく。 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。
神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。 あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。 なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、「それゆえ、わたしは、異邦人の中であなたにさんびをささげ、また、御名をほめ歌う」と書いてあるとおりである。 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。 ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。 しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。 兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストにより、かつ御霊の愛によって、あなたがたにお願いする。どうか、共に力をつくして、わたしのために神に祈ってほしい。 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。 彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、 かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは異なっている。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪に定めることになったが、恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。
では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。
しかし、彼に対する御告げはなんであったか、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」。 キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。 貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。 わたしの同族であって、わたしと一緒に投獄されたことのあるアンデロニコとユニアスとに、よろしく。彼らは使徒たちの間で評判がよく、かつ、わたしよりも先にキリストを信じた人々である。 愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、
このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、 どうか、平和の神があなたがた一同と共にいますように、アァメン。
そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 そして、彼らは平和の道を知らない。 神の賜物と召しとは、変えられることがない。 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。 願わくは、わたしの福音とイエス・キリストの宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、預言の書をとおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に告げ知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることのできるかた、 また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。 àÌÅ éBFªA_ÌäOÉÀÁÄ¢éB_©ç¸ððó¯éB»êÍÀSAÀ§A»µÄuV[vð\íµÄ¢éB»Ì¸ðÆpð_©çó¯ÄA_ÆÆàÉHðµÄ¢éæ¤ÈàÌÅ éB½¿ÍA_Ì_aÅ_ÌäOÉ ÁÄÆàÉH×éÌÅ éBuV[vÌóÔͱÌïɨ¢ÄÍÁ«èÆ\í³êÄ¢éB±êÍA_ÌÔÅÌïÅ éB_̤ÌïÅ éB»Ì±Æðo¦A{É´ÓÌSðàÁĹ`®ð¢ÁµåÉ󯽢Æv¤B キリスト・イエスにあるわたしの同労者プリスカとアクラとに、よろしく言ってほしい。 こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。 あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。
彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、 アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマスおよび彼らと一緒にいる兄弟たちに、よろしく。
神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。 また、神の御旨により、喜びをもってあなたがたの所に行き、共になぐさめ合うことができるように祈ってもらいたい。
もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。