ベートーヴェンの交響曲と言えば多くの人は「運命」か「第9」を挙げる事でしょう。しかし、この2つの交響曲もこの『交響曲第3番「英雄」』があったからこそ生まれた音楽なのです。ベートーヴェンはこの「英雄」から大きく飛躍を遂げ、世界的な音楽家に成るのです。

誰でも1度は『アヴェ・マリア』を耳にした事があると思います。心が洗われる気分になりますね。私はキリスト教徒ではありませんが、この曲を聴くと本当に「神」が存在するように思えてなりません。そして、心が落ち ピアノの原型がこの世に誕生してから300年余り、時代を超え演奏が不可能に等しいと評される超絶技巧が必要とされるピアノ曲も多く生み出されました。指がちぎれるのではないかと錯覚するほど難しいピアノ曲が世の ベートーベン(ベートーヴェン)「ピアノソナタ」の記事一覧.

ベートーヴェンの交響曲と言えば多くの人は「運命」か「第9」を挙げる事でしょう。しかし、この2つの交響曲もこの『交響曲第3番「英雄」』があったからこそ生まれた音楽なのです。ベートーヴェンはこの「英雄」から大きく飛躍を遂げ、世界的な音楽家に成るのです。「英雄」はそれまでの伝統を打ち破った革新的な音楽でした。それまでの教科書的存在であったハイドンの交響曲とは何から何まで違っています。明らかに時代を跳び越す起爆剤になった交響曲です。この「英雄」から交響曲第6番「田園」までの音楽は「傑作の森」と呼ばれています。ベートーヴェンが楽曲に「ニックネーム」を付けることはとても珍しい事です。出版社が名付けたり、楽譜の最初の発想記号から付けられたりとかが主流です。ベートーヴェン自身がきちんと名付けたニックネームはこの曲以外では『田園』と『告別』の2曲だけです。この交響曲の楽譜の表紙を見てみると、ペンでぐしゃぐしゃに消した跡が見られます。破れている部分さえあります。そして、消した部分の下に「ある英雄の思い出のために」と書き足してあります。「英雄」はそもそも「ボナパルト」というニックネームを付ける予定でした。しかし、ベートーヴェンはナポレオンが皇帝に即位したと知るや否や、楽譜に書かれた「ボナパルト」というニックネームを、上記のように消してしまい、「ある英雄の思い出のために」との一文を付け足しました。この話も秘書シンドラーが書いている事なので、本当かどうかは疑わしいところもあります。そこに何と書かれていたかは、今となっては確認のしようがありません。ベートーヴェンがナポレオンに好意的だったのはベートヴェンの雑記帳にも残っており、本当の事だと思われます。しかし、最近の学説では、この交響曲をナポレオンのために作曲したのかどうかは疑わしいとするベートーヴェン研究者が多くなってきています。「ある英雄の思い出に」と書き足されていますが、これはナポレオンのことではなく、初演の2年後に若くして戦死した「英雄」はそれまでの交響曲の伝統を打ち破った画期的な交響曲でした。ここから本当の意味の交響曲が誕生しました。ベートーヴェンの進化を記念する第1弾であり、ここからのベートーヴェンの音楽は全てにおいて、今までの常識を打ち破るものとなりました。以上、音楽的な要素においても弟子達が驚くような革新的な手法を取り入れました。これら多くの革新的手法を用いた事が「エロイカ的飛躍」と呼ばれる所以です。初めて英雄を聴いた人たちが驚いた事は、想像に難くありません。交響曲を聴きに来た聴衆はさぞ、驚いた事でしょう。「英雄」はベートーヴェンの生涯の中でも 重要な位置にあるといえます。この作品が生み出された当時の肖像画を見ると、後世のイメージとはだいぶ異なる最先端のファッションに身を包み、身だしなみの良い上品な姿で、まるで「英雄」を意識しているかのような輝きが感じられます。交響曲3番「英雄」が作られたのは、クラシック界でも名高い「ハイリゲンシュタットの遺書」が書かれた次の年です。ではいつからこの交響曲に着手したかを予想してみましょう。第2交響曲とはあまり間隔が空きませんが、1803年ごろと考えるのが自然と思います。「英雄」の作曲が始まる少し前、歴史的な大事件、フランス革命が起きていました。一般市民がクーデターを起こし、王政を打倒し、フランスは一時混乱の中にありました。ベートーヴェンはこの革命に深く共感したといわれています。ベートーヴェンはもともと自由主義者でした。王政や貴族主義に反対的な立場をとっており、ドイツの時の政権からは政権批判をする危険人物としてブラックリストに載っているほどの人物でした。そんな彼からしてみれば『フランス革命』は自分の思想を体現した革命に見えたのでしょう。この革命はある歴史的な「ヒーロー」によって沈静化されます。そのヒーローの名はナポレオン・ボナパルト。彼がフランス革命の中で出世し、やがてフランスのヒーローと呼ばれるようになりました。英雄を書き始めた時期については正確な記述が残されていませんが「ハイリゲンシュタットの遺書」を書き、運命に立ち向かう自分を見出した頃だったと予想できます。おそらくは第2交響曲完成後の1803年ごろには作曲に着手していたと言う考えが有力でしょう。フランス革命の時代に誕生した歴史的ヒーロー「ナポレオン」に触発された事も多くあったでしょう。それをどこまでこの曲に入れたかどうかはベートーヴェンのみぞ知る事です。しかし無関係という事はなかったはず。フランス革命が起こらなければ「英雄」は生まれていなかったかもしれません。第1楽章からして始まりは和音2回!「ジャン、ジャン」で始まります。「英雄」たる響きを持つとされる変ホ長調の主和音が2回繰り返されます。これだけでも「英雄」の雰囲気が漂ってきます。見事な開始です。そのあとで第1主題が弦楽器で示されます。何という素敵な始まり方でしょう。第1楽章はまるで、英雄を初めて演奏した時、ホルン奏者があまりに不自然な箇所でホルンを吹いたので、ベートーヴェンの弟子は思わず拍を取り違えたと勘違いしてしまったそうです。当時の和声上ではタブーのやり方だった為、その後も弟子だけでなく多くの聴衆がこの劇的な仕掛けに驚く事になります。そして終曲部が始まり、第1楽章の終わりに向かって加速度的に盛り上がりをみせていきます。今まで登場してきたテーマが繰り返され、聴きどころも盛りだくさんです。うねる荒波のような力強い弦楽器を経て、3拍子の力強い足取りが「英雄」の長大な1楽章の締めくくりです。20分に及ぶ長大な楽曲は、ベートヴェンが活躍した古典派の時代から数十年後のマーラーやブルックナーなどのロマン派まで全く書かれる事がありませんでした。壮大な第1楽章は本当に時代の先を行ったベートーヴェンだからこそ作る事ができたのでしょう。第1楽章だけ聴いても「あ~、満足」って思ってしまいます。ベートーヴェン様様です。この楽章は、第1楽章から一転して緩徐楽章です。交響曲には異例ともいえる有名な「葬送行進曲」になっています。そもそも、葬送行進曲を交響曲に取り入れるという発想自体、ベートーヴェンの天才さが分かります。第2楽章も15分以上の大作です。普通、古典派交響曲の第2楽章は緩徐楽章、つまりゆっくり穏やかで癒し系の曲が置かれますが、なんとこの曲ではコントラバスの低音が迫力があります。このメロディはオーボエに引き継がれます。中間部は、オーボエによって明るいメロディが演奏され、「英雄」の生前の業績を振り返るような感じです。その後、最初の「葬送行進曲」に戻りますが、今度はフーガになりさらに厳格な雰囲気になります。そして特に特徴的なのは、最後のまとめ方です。まるでため息のように、ベートーヴェンは誰の死をイメージして作曲したのかは今となっては分かりませんが、この「葬送行進曲」は現在でも、葬送のために使われている事が多く有ります。有名な方はもちろんの事、我々一般人でも、お葬式に行くと、この第2楽章が流れている事があります。ベートーヴェンはこの第3楽章にスケルツォを置きました。スケルツォというのは軽快でユーモアがあって、早いテンポの事を言います。「葬送行進曲」の後に、これを持ってくるなんてアイディアは、ベートーヴェンでなければ出てこないでしょう。5分という短時間で終わってしまいます。メロディーはいたって陽気で、第2楽章の葬送行進曲とはかなり異なった印象を与えています。この弦楽器の速い動きの上に木管楽器がリズミカルなメロディを演奏するスケルツォです。第3楽章全体を通して、この軽快な音楽が続きます。弦楽器のリズムの取り方、そしてその上に木管楽器によって時折メロディーが現れます。金管楽器もこの楽章では大事な役割を果たしています。中間部は、ホルン3本による狩猟の合図のような雰囲気のある、印象的な音楽です。ベートーヴェンが出版社であるブライトコプフ&ヘルテル宛に出した手紙の中にも、わざわざ「三本のオブリガート(独奏)ホルン」と書かれており、正しくその真価が発揮されています。ベートーヴェンの発想力の素晴らしさを感じる第3楽章です。あっという間に第3楽章が終わり、いよいよ終楽章です。終楽章は変奏曲になっています。交響曲の終楽章は大抵、第1楽章と同じソナタ形式になっているものが一般的です。変奏曲になっている事自体、交響曲では珍しい事です。ベートーヴェンの革新さが良く分かります。第4楽章も大衆向けの親しみやすい、しかも最後は圧倒的な盛り上がりを見せる名曲です。前の3つの大きな楽章を受けるこの楽章のテーマはこの曲のために作ったものではなく、バレエ音楽「プロメテウスの創造物」で使った旋律です。このテーマはベート-ヴェン自身大変気に入っていたようで、ピアノ曲などにも転用されていて、この交響曲への転用は4回目となるそうです。次から次へと聴きごたえのある音楽が続きます。懐かしさを感じる旋律が出て来たりと変奏は続き、終結部に入っていきます。最後はテンポもプレストになり、執拗なくらいのフォルティシモの和音を繰り返しながら圧倒的な盛り上がりを迎え、英雄的にこの交響曲は閉じられます。第1楽章から第4楽章までを一気に見てきました。ここで全体を通しての感想を書いておきます。第1楽章から第4楽章まで、それぞれを見ていくととても素晴らしいと思えるのですが、ベートーヴェン様、これはもうちょっと、やり方があったのではないでしょうかという疑問も生まれます。この楽曲を聴いた人全ての人が思うことは、第1楽章に雄大な物を持ってきて、「葬送行進曲」を第2楽章に配置した意味合いが薄れてしまう感じを持つのは私だけでしょうか。私が最も好きな曲と前にも書きましたが、その部分だけはこの「英雄」を聴くたびにいつも引っかかるところです。「英雄」は23歳の若きベートーヴェンが作曲した素晴らしい交響曲です。若い時にしか書けない自由奔放さが溢れた曲です。後にベートーヴェン自身が言っている事ですが、彼は自分の楽曲の中で、一番お気に入りの楽曲だったようです。作曲家が自分の楽曲について話す事は珍しい事です。ベートーヴェンは1817年(第9交響曲を作曲中のころ)、「自作でどれが1番出来がいいと思いますか」という詩人クリストフ・クフナーの質問に対し、「『第5交響曲』かと思いました」と言う言葉に対しても「いいえ、「英雄」です!」と否定しています。1817年はベートーヴェンの晩年となります。それまで数々の名曲を作ってきた人物が、はっきりと「英雄」だと応えているのは、この曲が彼の中では最も大きい存在だったということです。「ハイリゲンシュタットの遺書」の直後にすぐに書かれたこの曲は、ベートーヴェンにとっては心機一転の、特に力を込めたであろう事は容易に想像できます。それで自分の楽曲の中で、伝統に縛られる事なく自由奔放に書き上げたら、こんな自信作が出来ましたという感じなのでしょう。「よし、世間の奴らよ、よく見てろ」という具合に書き進めたのでしょう。だからこそこんなに独創的で、実験的な、あえて言えば挑戦的な作品に仕上がったのかもしれません。まあ、それもこれもベートーヴェンという天才作曲者だったからこその功績なのでしょう。冒頭にも書きましたが、「英雄」は私の最も好きな曲です。「英雄」がナポレオンを思って作曲したかどうかは関係有りません。そんな事知らなくても感動が得られる曲です。却って、そんなエピソードに惑わされずに聴く事が大事かと思います。この「英雄」から「運命」、「田園」を生み出した「傑作の森」に繋がっていきます。「英雄」はその第1歩として見事にその役割を果たした傑作だと思います。今の時代にこの「英雄」が聴ける事はとても嬉しい限りです。ベートーヴェン様、ありがとうございます。ベートーヴェン『交響曲第8番』を皆さんどう聴いていますか?他の交響曲に比べてマイナーなイメージがあり、演奏機会もそう多くはありません。この交響曲を名曲と見るかどうか、難しい問題です。一層難しくしている