「ロールシャッハテスト」は、抽象的なインクのしみのような図形が何に見えるかという心理テストだということは広く知られていますが、それ以上のことは、まったくといっていいほど、知られていませんよね?どのようなところで行われているのか?そういったことを知っている人は、あまりいません。これは、ロールシャッハテストが、心理テストとして、科学的根拠に基づいた普遍性をもたずにいまだ研究が続けられており、診断法が非常に難しいために定説や定番というものがないからです。ところが、医療機関などでは、被験者の思考や病理性を診断するツールとして、また、心を癒す療法のツールとして実際に使われています。ここでは、こうした少々難解なロールシャッハテストの概要や現状を、わかりやすく解説します。ロールシャッハテストは、心理テストのひとつです。心理テストと聞くと、カウンセリングや病院を連想するかも知れませんが、誰もが学校や会社などで普通に体験しているものも多いのです。まず、心理テストの分野でロールシャッハテストが、どのように分類されているのかを解説しましょう。心理テストには、主に子どもの発達や知能などを調べる「知能検査」、進路を検討したり、会社に入社したときの適正を調べたりする「適性検査」、ストレス過多や心の病気、人間関係で問題を抱えたときなどに行う「性格検査」といったものがあります。性格検査は運転試験場や就職活動の場で、能力検査と併せて実施されることもあるので、対策を考えたという人もいるのではないでしょうか。対策とはいっても、要領や段取りを前もってわかっておき、不安をなくすといった程度のことです。また、性格検査によって、被験者の性格が確実にわかるわけではありません。ですから、検査する人間がどう読み解くかが重要で、検査者には経験や知識が求められます。そうした場で行われる性格検査は、「質問紙法」「作業法」「投影法」の3つに分類されます。「小さいことを気にしてしまう」「人と話すのが苦手だ」といった一連の質問に対して、「はい」「いいえ」「どちらでもない」の3つから選択する「YG性格検査」が、質問紙法の代表的なものです。YG(矢田部ギルフォード)性格検査は、アメリカの心理学者ジョイ・ギルフォードが開発した「ギルフォード検査」を、日本の心理学者である矢田部達郎らが日本版にアレンジしたもので、幅広い分野で採用されています。作業法は、一定の時間内にひとケタの簡単な足し算を行って、その結果から性格をとらえる「内田クレペリン精神検査」が有名です。図形や言葉のような曖昧な刺激を与えて、連想するものなどを答えてもらい、その解答を採点して性格をとらえる検査です。投影法は、「曖昧な刺激に対する反応には、被験者の無意識が反映(投影)される」という考え方に基づいています。投影法には、性格をとらえるための検査であると同時に、心を癒す治療の手段として実施されているものもあります。言葉や色、図形などを扱う投影法には、これから解説をするロールシャッハテスト以外に、次のようなものがあります。ロールシャッハテストは、図形と色彩を扱う投影法の代表的な検査です、ロールシャッハテストの誕生から現在に至る経緯を整理してみましょう。ロールシャッハテストは、1921年にスイスの精神科医ヘルマン・ロールシャッハが著した『精神診断学』という本の中で詳しく記述されています。ロールシャッハが1909年から1913年まで、スイスのミュンスターリンゲン精神病院で勤務医として働いていたときに考案した検査法で、当初は、本人が意識していない部分を明らかするための研究用ツールでした。ロールシャッハは、後から、この検査がいろいろな種類の精神疾患を診断するのに使えることを発見して、この本で主張しています。インクのしみが診断のツールとして使えるのではないかという研究は、ロールシャッハ以前に何人もの研究者によって行われていましたが、ロールシャッハテストは、無秩序なインクのしみを解釈するうちに被験者の防衛意識が弱まり、無意識が最大限に表面化するという点から多くの医師や学者に支持されたのです。ロールシャッハは、10種類の図版を被験者に1枚見せるごとに、「これは何でしょうか?」と尋ねるだけの検査を、異なった心理障害のグループ対して実施しました。被験者には、いろいろな学歴の健常者や、統合失調患者、そううつ病と診断された患者なども含まれていました。ロールシャッハは、こうした検査から、10種類の図柄に対して15から30の反応を示す被験者が多く、気持ちが高揚した被験者は多めになり、統合失調症の患者は個人差が激しいことが多く、回答を拒否することも多いことなどを発見します。こうした実験を続けてデータが蓄積されるうちに、ロールシャッハはこの検査が被験者の無意識の領域を解明するだけでなく、診断ツールとして使えることに着目したのです。ロールシャッハが示した、この検査の実施方法には、4つのガイドラインがありました。これらの結果から、ロールシャッハは性格をいくつもの測定法で分類しました。ロールシャッハは、『精神診断学』が出版された翌年の1922年に他界してしまいます。ロールシャッハテストの有効性を主張する研究者によって、反応の細分化と、その反応を採点して診断する「スコアリングシステム」がいくつも開発されます。まず、1937年に開発された2つのスコアリングシステムが広く受け入れられましたが、ロールシャッハの主張に忠実であったサミュエル・ベックと、フロイトやユングの精神分析理論を深く結びついたブルーノ・クロプファーが基本とする前提が相反するものでした。さらに、1957年までに3つのスコアリングシステムが開発されて広まりましたが、その解釈法や有用性について、心理学会や精神医学会で多くの混乱が生じたのです。こうした混乱状態に一石を投じたのが、1974年に出版された、アメリカの心理学者ジョン・エクスナーの『包括システムの基礎と解釈の原理』でした。エクスナーは、1968年に「ロールシャッハ法研究財団」を創設し、既存の5種類のスコアリングシステムで、どれが経験的な根拠をもつ有用なものかを明らかにしようとしたのです。しかし、既存のスコアリングシステムを分析するうちに、どれも大きな欠陥があるという結論に行き着きました。そこで、エクスナーは、一貫性のある標準的なスコアリングシステムを開発すべく、大規模なデータベースをつくり、実施方法についても明確な指針を示したのです。エクスターはまったく新しいシステムをつくるのではなく、既存のスコアリングシステムの中から確かな要素を集めてひとつのスコアリングシステムを完成させました。アメリカではロールシャッハテストの研究がその後も進められ、エクスナーの『包括システムの基礎と解釈の原理』は、1983年に第2版、1993年に第3版、2003年に第4版が出版されています。30年以上ロールシャッハテストの研究を続けたエクスナーは、2006年に他界しましたが、アメリカではその後も多くの心理学者や精神科医によって研究が脈々と続けられると同時に、公的機関や医療機関の現場で活用されています。日本では、1930年頃に導入された古い歴史があり、独自の研究も行われてきました。アメリカでいくつものスコアリングシステムが開発されたように、日本でもいくつかの手法が開発されましたが、もっとも広く普及したのは、1974年に『心理診断法』、1987年に『新・心理診断法』を出版した心理学者の片口安史による「片口式スコアリング」です。現在は、日本人のデータを蓄積した包括システムと片口式が主流となって、多くの精神科医や臨床心理士に活用されています。 公的機関や医療機関などでもっとも多く実施されている投影法であるロールシャッハテストは、スコアリング及び解釈に、相当な経験と知識が必要とされるので、誰もが簡単に実施できるものではありません。被験したい場合には、精神科や心療内科を開設している病院、臨床心理士のいるカウンセリングルームなどで相談することになりますが、多くは心理療法の一環として行われているものなので、ロールシャッハテストだけを被験することは難しいのが現状です。ここでは、ロールシャッハテストがどのようにして行われているのか、基本的な実施法を紹介します。ロールシャッハテストを実施する理想的な検査環境とは、検査者と被験者だけの空間で、第三者の妨害がないことです。机と2脚のイスを用意するか、机の代わりにイスをもう1脚使う場合もあります。重要なのは、検査者と被験者が向かい合わずに、並んで座り、検査者が被験者に影響を与えないことです。 検査者が被験者に見せる10枚のカードです。カードは裏返しにして机かイスの上に置かれ、カードⅠを一番上にして番号順に重ねられています。このカードは専門の業者が販売しており、ネットなどで容易に画像が入手できるものではありません。包括システムにおいても片口式においても、標準的な記録用紙というものはありませんが、一般的に使用されているものは、カード番号、カードの向き、反応段階、質問段階などという欄がある、だいたい同じようなフォーマットになっています。検査者は、記録用紙を少なくても15枚は用意して、被験者の反応をカード1枚ずつ記録していきます。ロケーションシートとは、10種の図柄を白黒とカラーに分けて縮小プリントしたシートで、それぞれのカードに対する反応が、図柄のどの部分に対するものかを書き込みます。包括システムでは、「構造一覧表」という、スコアリングに必要な書式をすべてセットにしたものがあり、その中にロケーションシートも含まれています。多くの場合、クリップボードに記録用紙を固定して、その下にロケーションシートを入れておきます。そのほか、2本以上のペンや鉛筆、予備の記録用紙などが用意されます。ロールシャッハテストは、急いで行ってはいけないものです。一般的な所要時間は、反応段階で20分、質問段階で少なくても30分程度とされますが、被験者の条件によって変わってきます。10歳未満の子どもに実施する場合には、反応段階で平均60分かかるといわれます。ロールシャッハテストで考察できるのは、思考様式、感情状態、対人関係、行動パターン、自己認知、病理性(病気の原因や過程の根拠)など、多岐にわたります。ごく一般的な解釈では、形に反応した場合は知的側面に結びつき、色に反応した場合は情緒的側面につなげて考えられます。また、暖色に反応した場合は、感情や欲求が外に向かって出やすい傾向があり、寒色に反応した場合は、自己抑制が強く、依存的傾向がある可能性を示すとされます。 それは心理テスト全般にいえることですが、検査の結果には個人差があるので、性格検査としては普遍性に欠けるという主張があるからなのです。ロールシャッハテストは、同じスコアリングシステムを使用しても、検査者のテクニックによって導かれる結果が異なるのは事実。それほど、いまだ研究途上にあり、むずかしい診断ツールなのですから、ネット上や雑誌などで、ロールシャッハテストを真似た心理テストがあっても、決して信頼がおけるものではないことは覚えておきましょう。【参考資料】