ヨハネ17章は、大きく分けて三つの部分に分けられます。初めは1節から5節まで。
8 ヨハネ 17章の祈りを読むと,イエスがその場にいた使徒たちだけでなく,将来弟子になる人たちにも深い愛を抱いていたことが分かります。 ( ヨハ 17:20 )それとともに,わたしたちの救いがイエスの主要な関心事ではなかったことを理解する必要もあります。 ー ヨハネ福音書の意向全体をまとめた17章のイエスの祈り ー. 【新改訳改訂第3版】17章1 節、5節5・・・世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」ー2011.4.15 Copyright © 2020 powered by ヨハネによる福音書17章に記された祈りは、イエス様の祈りで最も長い記録となっています。この祈りはその内容から「大祭司の祈り」と呼ばれています。御子であるイエス様が父なる神様に私たちのためにとりなしてくださっている祈りだからです。 (ヨハネ 17:24)ここでイエスは,ずっと昔から,アダムとエバに子供ができる前から,自分が神に愛されてきたことを示しました。 イエスは祈りの最後に,父の名前と神の愛を再び強調します。 視聴できるビデオはありません。申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。「父よ,……あなたの子の栄光を表わしてください。子があなたの栄光を表わすためです」。―神を本当に「知る」ことには,どんなことが関係していますかわたしたちは,どうすればイエスの祈りに調和して行動できますか西暦33年ニサン14日の晩遅くのことです。イエスと仲間たちは,過ぎ越しの祝いを終えたところです。神が父祖たちをエジプトでの奴隷状態から救出してくださったことを思い起こすための祝いです。とはいえ,イエスの忠実な弟子たちは,はるかに壮大な「永遠の救出」を経験することになっていました。翌日,罪のない指導者イエスは敵たちの手で死に処されます。しかし,この残酷な仕打ちは祝福につながります。イエスの流した血は,人類を罪と死から救出するための基盤となるのです。― 1世紀のクリスチャンは聖霊と協働し,一致を保った(13節を参照)世界中のエホバの民は一致している(14節を参照) イエス・キリストは祈りを通して天の御父に呼びかけられる. そして、その締めくくりとしてこの17章のイエスの祈りがあるのです。そのような背景を踏まえながら、今日与えられたみことばを読んで参りましょう。 2.本文. イエス様は公けに民を教えるという活動を終えられました。これから待っているのは、人生で一番辛い時です。そして一方では、それは人生の最高の時でもあります。すなわち、全世界の罪のために十字架にかかって死ぬことと、天の父なる神様の栄光の中に帰ることです。世のすべての人間はイエス様の権威の下にあります。それは、神様の御子であるイエス様というペルソナ(三位一体なる神様の内の一つの位格)において、暗い世にいる罪人が 聖なる神様の栄光への道を見出すためでした。光は灯され … 17章は「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。」のあと章の最後までがひとつのカギ括弧で囲まれています。「大祭司の祈り」とも呼ばれるこの箇所は、四福音書に記録されている主イエスの祈りのうちでもっとも長いものです。 これから扱う17章は古代教会の時代(アレクサンドレイアのキュリッロス)以来、「イエス様の大祭司としての祈り」と呼ばれてきました。これは的を得た呼称と言えるでしょう。この呼称の背景には、旧約聖書における祭司の主な仕事が、犠牲を捧げることと、それに先立って祈ることだったことがあります。世界全体の罪のゆえに御自分を犠牲として捧げる前に、ここでイエス様は、弟子たちや後に残されることになる全教会のために、お祈りしてくださるのです。イエス様は公けに民を教えるという活動を終えられました。これから待っているのは、人生で一番辛い時です。そして一方では、それは人生の最高の時でもあります。すなわち、全世界の罪のために十字架にかかって死ぬことと、天の父なる神様の栄光の中に帰ることです。世のすべての人間はイエス様の権威の下にあります。それは、神様の御子であるイエス様というペルソナ(三位一体なる神様の内の一つの位格)において、暗い世にいる罪人が 聖なる神様の栄光への道を見出すためでした。光は灯され、道は示されています。光をもたらしたお方は、この世に来られる前にもっていた栄光の中へと帰ろうとしています。神様から生まれた神御自身であるにもかかわらず、御子が御父に対してへりくだり、祈り、敬いつつ近づかれる、ということは、聖三位一体の偉大な深遠と奥義に関わることがらなのです。御自分に属する者たちのために祈り始めるにあたって、イエス様は、まずはじめに、弟子たち、とりわけイエス様の時代に生きイエス様と行動を共にした人々、のために祈られます。その後で、イエス様は、彼らと同じ信仰を守っていく私たちのためにも祈り始められます。このことに注目するのは大切です。それは、私たちが、迫り来る厳しい現実を見据えないまま、あまりに楽天的すぎる物の見方をしないためです。イエス様の敵は、すでに集結し、重装備をして、主を捕らえるためにこちらに向かってきていました。ここでのイエス様の祈りの言葉は、地獄の力が勝手放題に振る舞う時がごく間近に迫っている状況を念頭に置いて読むべきです。まさにこうした背景を踏まえて読むとき、イエス様のこれらの祈りは、私たちの人生の困難で苦痛な時にも、私たちを支えてくれる原動力となってくれます。「弟子たち」とは誰のことでしょうか。彼らは、神様がこの世から選び出し、イエス様にお与えになった人々のことです。御父が命じられたことをすべて、御子は彼らに教えました。イエス様が御父の遣わされた御子であり、世の救い主であることを、彼らは理解しました。暗闇の世界に神の光が灯ったのです。しかし、まさしくこの光のゆえに、「イエス様のもの」である人々は憎まれることになります。というのは、暗闇の世がやりたいのは神様の光を吹き消すことにほかならないからです。今までイエス様は弟子たちを守られました。しかし今、天の父の御許へと旅立とうとしているので、彼らを神様の御手にゆだねられるのです。神様は彼らをこの世や悪の只中から取り去りはなさいません。しかし、彼らをこの世で悪から守ることはしてくださるので、イエス様はそれを願い祈られるのです。それは、「神様、私に属する人々が御言葉の謙虚な学徒として、天の父の栄光と真理に堅くつながり続けられるように、どうかこれからも彼らを守っていてください」、という祈りです。イエス様の祈りの最後の言葉は、弟子たちだけに向けられたものではありません。この言葉は、キリストの教会全体に対するものでもあります。すなわち、歴史全体を通じて、イエス様の弟子たちが伝えてきた御言葉を信じた人々や、それをさらに次の世代へと伝えてきた人々全員にも向けられているのです。イエス様は、ふたつのことを祈ります。第一に、イエス様に属する人々が「ひとつ」であるように、第二に、彼らがいつかはイエス様の御許(すなわち、神様がおられるところ)にいられるようになることです。御自分に属する者たちが「ひとつ」であるように、という主イエス様の祈りは、「ヨハネによる福音書」が書かれた当時にもあった心が痛む問題を示唆しています。すなわち、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との間に緊張があり、様々な異端の分派が教会全体の一致をひどく傷つけていたのです。しかし、イエス様は、御自分に属する者が皆ひとつの生命共同体を形成して、御父と御子が同質であるのと同じように「ひとつ」となるように、と祈られます。この世には、イエス・キリストが御自分の花嫁として用意してくださった唯一つの教会しかありません。教会が無数に離散している現実は、人間が惹き起こしたものであり、その原因は人間の罪深さにあります。このイエス様の祈りのふたつの点が、私たちの間でも問いかけを生むことを、私たちは期待するものです。まず第一に、もしもただひとつの教会が存在することが神様の御心なのだとしたら、ルーテル教会、ローマ•カトリック教会、ギリシア正教会、バプテスト教会、ペンテコステ教会などが存在している現実は、一体どういうことなのでしょうか。しかも、教会の他にも、モルモン教、エホバの証人、その他諸々の団体などが存在しています。たくさんの教会が存在している原因はひとつだけ、すなわち罪です。人々が神様の真理を捨て去っていることに由来しているのです。といって、教会間の垣根を無造作に取り払うことや、何でもかんでも容認して受け入れることによっては、決して教会の真の一致を実現できません。真の一致はキリストの中にあり、その御言葉の中にあります。ルーテル教会はその信条の中で、唯一の聖なる使徒的な教会が存在する、という信仰を告白します(例えば、ニケヤ信仰告白やアウグスブルク信仰告白第七条「教会」など)。ルター派の教会は、それが聖書に書かれている神様の御言葉にしっかり根付いて、人間が自分で案出した諸々の意見を矯正していく場合には、教会の真の一致のために、考えられうる限り最高の貢献をすることになる、と私たちは信じています。第二に、イエス様は、御自分に属する者たちが立派な家や高級車を得るようには祈りません。御自分が御父の栄光の中にいらっしゃるのと同じ場所に、彼らもまた最終的には居れるようにと、イエス様は祈ります。結局、キリスト教の信仰において大切なのは、ただひとつのことだけです。すなわち、私は、自分の罪を抱え込んだまま神様と別れ別れになり、地獄へ落ちるか、それとも、キリストからいただいた恵みのゆえに、神様とずっと一緒にいられる永遠の命と幸いな救いの中に入るか、そのどちらかである、ということです。イエス様の大祭司としての祈りは、読者を深淵へと連れ去ります。この聖書ガイドブックの講義ではそれに軽く触れるぐらいのことしかできません。神様と共に活きていく実際の人生こそが、私たちにこのことを本当に教えてくれる「大学」だ、と言えるでしょう。この人生の中で、キリストは神様の聖なる御名を人々に告げ知らせ、その意味を教えてくださいます。新約聖書学者ユッカ・トゥレン教授は次のように説明しています。「それなら、なぜイエス様は、何度も繰り返して神様の御名、すなわち、神様の真の本質を教え続けなければならないのでしょうか。それは、神様の中で歩む信仰者の生活が静止したものではなく、いろいろなことが起こる現実の人生そのものだからです。神様のことを知る、といっても、それはある種の認識に到達した「状態」のことではありません。私たちは、しばしば驚愕すべき新たな状況の中で、神様のみわざの影響を見分ける術を絶えず学んでいかなければなりません。もしも一度それを、イエス様の十字架の死を通して、ちゃんとはっきりと学んだなら、その後でもイエス様が神様の愛を教えてくださることを、私たちは期待してよいのです。イエス様はその愛を、この世が無意味な苦しみとか、せいぜい神様の怒りとしか見なさないような出来事を通じて、私たちに教えてくださいます。十字架刑を前にしてイエス様は、「キリスト信仰者のうちには、あなた(天の父)が私(キリスト)に示されたのと同じ愛が留まる」、と言われます。イエス様に怒りの杯を与えたのは、イエス様を愛される天の父なる神様でした。キリスト信仰者は、「一度神様の愛を受け入れた後でも、その愛を何度も繰り返して見出すように」、また、「死ぬ時にも神様の愛に信頼するように」、という教えを生涯ずっと受け続けることによって、神様の愛がその人のうちに留まることになります」。