・無敵艦隊について. 広く知られる「なお、両国での暦が異なる(当時イングランドはまだ当時、スペインとイングランドとの関係は宗教問題やイングランドのスペイン王また、スペインが植民地から自国に物資を移送する途中で、幾度となくイングランドの加えて、プロテスタント信仰の拡大を策するエリザベスがスペインに敵対するスペイン艦隊は波の穏やかなさらにスペイン軍の大砲の数を2倍とし当初1588年1月出撃の予定だったが、フェリペ2世の病気のため出撃は延期になった。さらに遠征が実行される前に、1588年迎え撃つイングランド艦隊は、王室所属船34隻(1,100トンのトライアンフ号が最大で無敵艦隊が出帆した日、エリザベスの駐ネーデルラント大使無敵艦隊の航海は悪天候のために遅れ、ガレー船4隻とガレオン船1隻が艦隊から脱落しており、戦闘後、スペインのガレオン船サン・サルバドル号(その日の夜、イングランド艦隊は敵を追尾すべく出港した。ドレークがランタンを灯してイングランド艦隊を導いていたが、正体不明の船影を見た彼が、突然明かりを消して抜け出す事件が起こった。このため、取り残された艦隊は散り散りになり、夜明けまで混乱状態に陥ってしまった。イングランド艦隊が再集結するまでに丸1日を要しているそれから、イングランド船は優勢な速度と機動性を生かし、丸1日かけてスペイン船に追いつくべく帆走した。東に移動した無敵艦隊は、一方、ダンケルクはオランダ人反乱軍のダンケルク近くは浅瀬が多いため先に進めず炎上したスペイン船はなかったが、半月陣形は崩され、そこへイングランド艦隊が戦闘を仕掛けるべく迫っていた。メディナ=シドニア公は号砲を鳴らさせてスペイン艦隊にカレーへの再集結を命じたが、多くの艦は錨をすべて失っており停止することができず、海岸線に沿って北東へ流されていくばかりだった。メディナ=シドニア公は、やむなく旗艦サン・マルチーニョ号(当時の英仏海峡での小競り合いによって、イングランド人は無敵艦隊の戦力と弱点を学び、スペイン船のオーク材の船体を貫通するには近距離に近づく必要があると結論づけていた。一方、スペイン軍の大砲は狭い配置間隔と甲板に収容できる砲弾に限りがあるため容易に再装填ができず、このことをドレークは捕獲したスペイン船ロザリオを調査した際に知ったサン・マルチーニョ号には、まずドレークの船隊が攻撃したが、理由は不明ながら短い砲戦を交わしただけで彼は針路を変えて去り、代わってフロービシャーの船隊が無敵艦隊の旗艦に襲いかかったイングランド艦隊は優勢な機動性を用いて、無敵艦隊に射程距離外から発砲させて砲弾を消費させ、スペイン船の砲弾が尽きたところでイングランド艦隊は接近して繰り返し発砲して、敵船に損害を与えたスペインのガレオン船サン・マテオ号(パルマ公の陸軍と合流する計画は挫かれ、イングランド人は休息する余裕を得た。しかし、無敵艦隊の存在は依然としてイングランドにとっての大きな脅威であった。グラヴリンヌ沖海戦の翌日、風は南西方向へ向きを変えイングランド人は依然としてネーデルラントからの侵略の脅威を軽視しておらず、1588年8月下旬から9月、無敵艦隊は一般的なイメージとは異なり、実際には帰路の航海中は嵐も少なくメディナ=シドニア公のサン・マルチーニョ号以下本隊は比較的順調に帰国できたが溺死や餓死、そして虐殺された犠牲者は戦闘によるものよりもはるかに多く、スペイン無敵艦隊の半数だけがスペインに帰還できたイングランドの損害は死者50から100、負傷者400に留まり、沈没した船はなかったが、イングランド艦隊はグラヴリンヌ沖海戦で無敵艦隊の再集結を阻止しえなかったので、なお艦隊に兵を配置し続ける必要があった。このため、艦隊に疫病が発生し、この海戦の結果は、それまではイングランドでは数年にわたり国威が高揚し、エリザベス伝説は彼女の死後も長く生き残り、そして成長した。スペイン海軍の撃退はヨーロッパ中のプロテスタントに勇気を与え、神がプロテスタント信仰を加護しているという信念は記念メダルに刻印された「しかし、イングランドの優位は翌スペインは艦隊を再建し、外洋での海賊行為やネーデルラントやフランスでのフェリペ2世の敵への増援は続けられたが、イングランドにはごくわずかの実質的な見返りしかもたらさなかったスペインはその後もしばらく欧州およびアメリカ大陸での覇権国家であり続けており、イギリスがこれに代わる強力な海軍を擁する海洋覇権国家になるにはなお長い歳月が必要であった総司令官チャールズ・ハワード提督 はじめの一言「日本が(明治維新を敢行しようとして。編者注)かくも多くの新思想と新制度をまるごと呑みこむ能力を、外国人たちはしばしば呆然として驚き眺めるのみであった。(チェンバレン 明治時代)」「日本絶賛語録 小学館」 *はじめにこの記事では、「ヨーロッパの歴史(欧州共通教科書)」から多く引用しています。それには、こんなねらいがあります。本書は、ヨーロッパの青少年たちが学習に際して利用できるよう特別な配慮の下に作成され、ヨーロッパ史の教科書のひな形、最初の汎ヨーロッパ史的教科書とみなすことができるでしょうヨーロッパ人に共通するすべてのもの、ヨーロッパという語に一定の意味を与えるすべてのものを理解することができるのです「ヨーロッパの歴史 (東京書籍)」 ヨーロッパの歴史を学ぶなら、ヨーロッパ人と同じ歴史認識を持った方がいいです。 今回の内容・前回のまとめ ・前回のまとめスペインはネーデルランド(オランダ)と戦っている最中に、イギリスとも戦うことを決めた。よせばいいのに。フェリペ2世はイギリスへの侵攻する決意を固めた。それはオランダ人反徒たちへのエリザベス1世女王の後押しに直面し、またアメリカ大陸のスペイン領に加えられるイギリス艦隊の攻撃に業をにやし、そしてさらに女王メアリースチュアートの処刑に憤激したからであった「ヨーロッパの歴史 (東京書籍)」 処刑された「女王メアリースチュアート(メアリ1世)」というのは、スペイン国王フェリペ2世の妻。これも理由のひとつになって、フェリペ2世はイギリスとの戦争を決意。 ・無敵艦隊についてサッカーのスペイン代表チームをよく「無敵艦隊」と言う。イギリスを撃破するためにフェリペ2世が送った「アルマダ」がこの由来になった。(サッカースペイン代表チームについて)日本では無敵艦隊の愛称で知られる(ウィキペディア) でも、個人的に「これはおかしくないか?」と思っていた。なぜなら、「無敵艦隊」といっても、このときはイギリスに負けているから。1588年、無敵艦隊(アルマダ)はスペイン軍部隊を載せてイギリスへと出撃したが、英仏海峡でイギリス艦隊の攻撃にあい、さらに嵐にも遭遇して壊滅的打撃を受けた。「ヨーロッパの歴史 (東京書籍)」 まるで、元寇のときに吹いた神風みたいだ。それで「おかしいなあ」と思っていたら、この「無敵艦隊」という言葉は、スペインがつけた名称ではなかった。世界史用語集(山川出版)には「イギリスがつけた呼称で」と書いてある。 でもこれは、スペインにしたらけっこう屈辱的。イギリス軍が撃破した艦隊を、イギリス人が「無敵艦隊」と呼んだ。こういうイギリス人のネーミングセンスは、割り勘を「ダッチペイ(オランダ人の支払い)」と表現したことにも通じる。アメリカ人がミッドウェー海戦で大打撃を与えた日本艦隊を「無敵艦隊」と呼んだら、日本人としては良い気持ちはしない。 イギリス人がいつ「無敵艦隊」と名づけたのかはわからない。スペインとの戦いの前から、イギリスがアルマダを「無敵艦隊」と呼んでいたら、これまでの解釈は変わる。実際、イギリスと戦ってボロ負けするまで、アルマダはすごかった。レパントの海戦 1571オスマン艦隊がスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇などの連合艦隊に敗れた海戦。レパントはギリシアの町。オスマン艦隊は翌年に再建されたが、この勝利はカトリック教徒に大きな勇気と希望をもたらした「世界史用語集 (山川出版)」トルコ艦隊を打ち破り、オスマン帝国の不敗神話に終止符を打った「ヨーロッパの歴史 (東京書籍)」トルコの「不敗神話」を打ち破ったのなら、「無敵艦隊」の名にふさわしい。 ・スペイン人は使わないところで、スペイン人はこの「無敵艦隊」という言葉を使うのだろうか?調べてみたら、スペイン人は使わないらしい。史上の「無敵艦隊」は1588年のアルマダの海戦でイングランド艦隊に壊滅的敗北を喫したためスペインでは使用されない(ウィキペディア) 日本のテレビや雑誌では、サッカー・スペイン代表を「無敵艦隊」とよく言う。けど、これをスペイン人が聞いたらどう思うのか?スペイン人が気にしなかったらいいんだけど。 ・スペインが歴史上、もっとも輝いていた時代このときのスペインは、最悪の状態。この前まで、スペインは世界の超大国だった。1565年には、「スペイン君主の他を圧する勢威は疑う余地がなかった(ヨーロッパの歴史 東京書籍)」という。でも1580年にスペインはさらに「進化」する。 日本に初めて来たヨーロッパ人は、ポルトガル人といわれている。でも、それからすぐに、ポルトガル人は消えてしまう。なぜならポルトガルは、1580年にスペインに併合されてしまったから。スペインはこの併合によって、すべてのポルトガルの植民地をスペイン領にする。ここにスペインの大帝国があらわれた。日の沈まない国「常にその領土にいずれかで太陽が昇っている国」の意。「世界史用語集 (山川出版)」 このときのスペインは歴史上もっとも輝いていた。ちなみにフィリピンという国名はフェリペ2世からつけられている。 フェリペ2世(ウィキペディアから) この「日の沈まない帝国」のケチのつき始めが、1588年の無敵艦隊の敗北だったと思う。*ちなみにこのころ(1582年)、日本では本能寺の変が起きて織田信長が明智光秀に殺されている。  ご訪問ありがとうございます。・外国人から見た不思議な国・日本の姿を伝える。「broaden your horizons」©Copyright2020

分艦隊司令官分艦隊司令官ネーデルラント艦隊指揮官ユスティヌス・ファン・ナッサ よぉ、桜木建二だ。今回は無敵艦隊についてだ。無敵艦隊とは、16世紀の栄華を極めたスペインの艦隊のこと。1571年にはレパントの海戦で、オスマン帝国を蹴散らしたことでも知られているよな。だがその後のイングランドとの戦いでは敗北を喫することになるんだ。 激突 スペインvsイングランド 無敵艦隊、壊滅への道(後編) イングランドをカトリック教国へと回帰させたメアリー1世が逝去。 これを継いで女王となったエリザベスは、再びイングランドを父ヘンリー8世が創設した英国国教会の国へと戻そうと画策する。 アルマダの海戦(アルマダのかいせん)、アルマダ戦争(アルマダせんそう、英語: Battle of Armada, Armada Wars )は、スペイン無敵艦隊(英語: Spanish Armada 、スペイン語: Grande y Felicísima Armada )のイングランド侵攻において、1588年7月から8月(旧暦7月)に英仏海峡で行われた諸海戦の …